地域共同体の衰退とナショナリズム

――国家が「民衆の感情」を利用するとき――

ナショナリズムという言葉には、どこか危険な響きがある。しかし、自分が生まれ育った土地を愛し、地域の文化や風景を守りたいと思う気持ちは、危険なものとは言えない。むしろ問題は、そうした人間の素朴な帰属意識が失われたとき、その空白を何が埋めるのかということである。

昭和史研究者の保阪正康1氏は、ナショナリズムを「国家ナショナリズム」と「庶民ナショナリズム」に分けて考えている2。前者は政府や官僚など国家を運営する側から生まれ、「国益の守護」「国権の伸長」「国威の発揚」といった形をとる。これに対して後者は、人々の日々の暮らし、生活の倫理、自然との共生、地域の伝統などから生まれる。童謡の「ふるさと」を聞いて沸き起こるような感情だ。このような相互関係の中で、昭和10年代には国家ナショナリズムが庶民ナショナリズムを押しつぶしていったと保阪氏は指摘している。

人間は国家の中だけで生きているのではない。家族があり、隣近所があり、町内があり、学校や職場があり、祭りがあり、方言があり、馴染みの店がある。「私は日本人である」以前に、「私はこの町の人間である」という感覚が存在する。こうした小さな帰属意識の積み重ねは、国家と個人との間に幾重もの中間的共同体をつくってきた。例えば、町内会、消防団、同窓会、商工会、宗教団体としての集まりなどである。ところが現代社会では、その中間部分が急速に薄くなっている3

人口減少と都市集中によって地方の共同体は縮小し、商店街は消え、地域の祭りは担い手を失う。地域共同体とは言えないが、日本で特有の「会社共同体」も、かつてのような終身的共同体ではなくなった。家族は小さくなり、単身世帯が増え、人間関係の多くがインターネット上へ移っている。

一見すると、これは個人が共同体の束縛から解放された自由な社会に見える。しかし、別の危険もある。人間は「どこにも属さない」という状態に、それほど強くはないからである。地域、職場、家族などへの帰属が弱くなれば、人は別の「われわれ」を探す。そのとき最も簡単に提示できる巨大な共同体が「国家」である。

保阪氏自身、「個人が共同体から遊離して孤立すると、いきなり国家に結びつく」と指摘している。これは極めて重要な警告である。地域共同体が健全であれば、人間の帰属意識は分散される。「私は日本人だ」という意識と同時に、「岡山の人間だ」「この町の人間だ」「この会社の仲間だ」「この祭りを守ってきた一人だ」という複数の自己認識を持つことができる。ところが中間共同体がなくなると、「私」と「国家」が直結する。

そこで国家ナショナリズムが、「日本人として誇りを持とう」「外国に負けるな」「国益を守れ」と呼びかければ、それは単なる外交政策ではなく、孤立した個人にとって自分の存在を確認する言葉になりうる。ここに国家ナショナリズムと庶民ナショナリズムの危険な結合が生まれる。さらに厄介なのは、国家は民衆の不安や不満を対外問題へ転換できることである。

生活が苦しい。将来が不安だ。自分の町が衰退している。仕事に誇りを持てない、社会から尊重されていない気がする。こうした不満の原因は、本来なら人口構造、所得分配、産業構造、社会保障、地域政策など国内社会の複雑な問題として考えなければならない。しかし、「外国に軽く見られているからだ」「外国人に利益を奪われている」「領土を守れ」「もっと強い国にならなければならない」という物語に置き換えれば、問題は驚くほど単純になる。そして国家にとっても、その方が都合よい場合がある。国内政策への不満が、「外敵」に対する怒りへと変換されるからである。

ここで注意しなければならないのは、国家が一方的に民衆を洗脳するという単純な構図ではない。むしろ危険なのは、国家と民衆が互いを増幅させることである。国家が対外強硬姿勢を示す。民衆の一部が喝采する。その喝采を見て政府はさらに強硬になる。SNSやメディアがそれを増幅し、「弱腰では選挙に勝てない」という政治状況が生まれる。やがて政府自身も引き返せなくなる。

昭和史が示す怖さもそこにある。1933年の国際連盟脱退に際して、日本国内では強い支持が生まれた。半藤一利氏と保阪氏は、外圧が強まり被害者意識が高まると、社会全体がナショナリズムへ傾斜する危険を指摘している。国家だけが戦争へ走ったのではない。国家が民衆を動かし、動かされた民衆がさらに国家を押したのである。だからこそ、対外強硬策を防ぐために必要なのは、単に「ナショナリズムを否定すること」ではない。むしろ逆である。

人間が身近な場所を愛することのできる、小さなナショナリズムを取り戻す必要がある。町を愛する。地域の歴史を知る。祭りを守る。隣人と話す。外国から来た人も含め、「ここで一緒に暮らしている人」を仲間として考える。そこでは「われわれ」と「彼ら」を分ける境界線は国境とは一致しない。岡山に暮らす日本人とベトナム人が同じ祭りを支えれば、二人は国籍を越えて「この町の人」になることができる。

地域共同体とは、国家を弱くするものではない。むしろ国家と個人との間に多くの「小さなわれわれ」をつくる安全装置なのである。国家しか愛する対象がない社会は、実は危うい。地域、家族、職場、文化、自然、そして身近な他者――人間が愛着を持つ対象が多ければ多いほど、国家が「国民対外国人」という一枚岩の物語をつくることは難しくなる。国家ナショナリズムの暴走を抑えるものは、ナショナリズムの消滅ではない。国家より小さな無数の共同体への愛着である。

国家の下に一億人が一直線に並ぶ社会ではなく、無数の地域と共同体が重なり合い、その一番外側に国家がある社会。その構造こそ、国家が民衆の不安や怒りを利用して対外強硬策へ進むことを防ぐ、民主主義の重要な防波堤なのではないだろうか。

  1. NHKアーカイブス 保阪正康 ノンフィクション作家 https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072894_00000 ↩︎
  2. 「ナショナリズムの正体」 著者:半藤一利、保阪正康(文芸春秋・2017年9月5日)https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167909314 ↩︎
  3. 「孤独なボウリング米国コミュニティの崩壊と再生」著者:ロバート・D・パットナム、編著:柴内 康文(柏書房・2006年4月1日)https://www.kashiwashobo.co.jp/book/4760129030 ↩︎

橋本俊明

「brIDge」主筆/公益財団法人橋本財団 理事長

1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。