格差は、ある程度までは市場経済や人間社会に自然に生じる現象である。これを問題とするのは、リベラルな立場の論者である、と少し前までは、多くの人が思ったことだろう。しかし、この十数年間に様相は大きく変化して、格差は、最も政治的に重要な、敏感な問題となっている。格差は、それ自体では顕在化しにくく、何らかの現象を伴うと突然大きな問題となるように感じられる。きっかけとなったのは、リーマンショック、その後の景気の回復、先進国でのポピュリズムの台頭だ。
まず、リーマンショックとその後の景気回復過程での現象を見てみよう。その景気回復は従来と異なり、いわゆる景気拡大感がないものだった。つまり、GDPの最も大きな部分を占める個人消費の拡大が乏しく、同時に、平均給与の上昇がないことも特徴だ。これは、景気の拡大、つまり、経済成長の果実が、一握りの人たち(所得上位1%程度)に集中していることだ。その結果、多くの国民にとって、果実を享受することが出来ず、格差の拡大が起こっているのである。2013年にトマ・ピケティが『21世紀の資本』に示しているように1、格差は次第に広がっている。
格差は、国家間での格差、国内の格差に分かれるが、幸いにも国家間での格差は急速に低下している。一方で、先進国、一部発展途上国内での、格差は急速に拡大している。
【図1;国家間の格差比較】

OECD統計より著者作成。
上図は、個人レベルの資産格差が、資産上位1%、5%、10%の人たちが全体のどの程度の資産を持っているかを示したものだ。当然ながらアメリカが最も格差が大きいが(上位1%が全体の42%の資産を保有し、上位10%の人が全体の79%を持っている2)、ポイントは、格差の拡大(所有資産の差)が、アメリカなど特定の国に限ったことでなく、むしろ格差の少ないと考えられる北欧諸国にも及んでいることだ。さらに、資産格差は日本ではまだ小さい点(ただし現在は上昇傾向にある)が重要だ。現在の社会は資本家と労働者という二つの階級に分裂しているわけではないが、それでも「労働分配率3」が上昇すれば所得格差は縮小するということは変わらない。
逆に「労働分配率」が低下していくと(図2)(図3)、資本家は大きな資産所得を得るので速いスピードで資産を増やして行くのに対して、元々資産が少なく勤労所得だけが主な収入源となっている人達は資産の蓄積速度が遅くなる。
『21世紀の資本』で知られるトマ・ピケティ(1971-)の師でもある不平等研究の第一人者、アンソニー・アトキンソン(1944-2017)は、第二次世界大戦後に世界的に不平等が縮小し、その後1980年代以降に格差が再び拡大した原因の一つとして、労働分配率の動向を挙げている4(注3)。
【図2;諸外国の労働分配率】

OECD統計より著者作成。
【図3;日本の会社規模別労働分配率】

財務省「法人企業統計」より著者作成。
日本企業の生産性が上がっても賃金が上がらない主要な理由の一つは、生産性向上の果実が労働者に分配される制度的経路が弱くなっているからである。かつては、企業収益の増加は春闘、終身雇用、年功賃金、労働組合などを通じて賃金に波及した。しかし現在は、非正規雇用の拡大、労働組合の弱体化、企業の内部留保志向、株主重視経営、中小企業の価格転嫁力不足によって、その経路が細くなっている。
したがって、必要な対策は単なる「企業への賃上げのお願い」だけではいけない。第一に、大企業に対して、人的資本投資・賃上げ・下請け価格転嫁の情報開示を義務づけるべきである。➔公正取引委員会が取り組んでいる。第二に、最低賃金の段階的引上げである➔今年度は不十分だった。第三に、労働組合の強化に努めるべきである。
生産性の向上は、放っておけば賃金に変わるわけではない。水道管が詰まっていれば、貯水池に水が増えても家庭の蛇口からは出てこない。未だ格差が低い日本経済に必要なのは、生産性によって蓄えられた富という貯水池を増やすことだけでなく、それを賃金と生活実感へ流す分配の水道管を修理することである。
1950年代から1970年代にかけて多くの国で労働分配率は上昇したが、その後2000年代にかけては資本の取り分が上昇(労働分配率は低下)した。日本は例外的に2000年代にかけても労働分配率の上昇が続いたと言われている。しかし、日本の労働分配率の動きを見ると、その後は労働分配率が低下傾向に転じているように見える。
真の課題は、生産性を高めることではなく、その成果が働く人々へ適切に還元される経済システムを再構築することである。格差は市場経済の宿命ではない。制度設計によって縮小することのできる社会的課題なのである。
- Piketty, T.「Capital in the Twenty-First Century.」 (2013) 日本語版:みすず書房「21世紀の資本」著者 トマ・ピケティ、訳者 山形浩生 守岡桜 森本正史。(2014年12月8日)https://www.msz.co.jp/book/detail/07876/ ↩︎
- 世界不平等データベース(WID.world)「WID.worldの開設:世界の不平等に関するデータソース」https://wid.world/news-article/5963/ ↩︎
- 労働分配率とは、付加価値額に対しての人件費を示す指標であり、企業が新たに生み出した価値のうちどれだけ人件費に分配されたかを示す指標。ここでは、次の算出方法による。労働分配率 = 給与総額 ÷ 付加価値額 × 100(経済産業省「2023年経済産業省企業活動基本調査(2022年度実績)の結果(速報)を取りまとめました」 https://www.meti.go.jp/press/2023/01/20240130003/20240130003.html より) ↩︎
- Atkinson, A. B. 「Inequality: What Can Be Done?」(2015) 日本語版:東洋経済新報社「21世紀の不平等」著者 アンソニー・B・アトキンソン、訳者 山形 浩生 森本 正史(2015年12月11日) https://str.toyokeizai.net/books/9784492314708/ ↩︎

橋本俊明
「brIDge」主筆/公益財団法人橋本財団 理事長
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。




























