約2500年前、ブッダは「諸行無常」と説いた。あらゆるものは変化し続け、永遠に同じ姿を保つものは存在しないという教えである。この言葉は宗教的な戒めとして語られることが多い。しかし現代科学の目で眺めると、それは信仰ではなく、宇宙そのものの姿を言い当てた洞察であったことが見えてくる。
現代物理学によれば、この宇宙は素粒子やエネルギーによって構成され、それらは絶えず変化し続けている。そして、素粒子とエネルギーはお互いに変換しあう。恒星は誕生し、燃え尽き、銀河も変化する。さらに熱力学第二法則によれば、孤立した系ではエントロピーが増大し、秩序はやがて無秩序へ向かう。宇宙は静止した存在ではなく、変化そのものなのである。また、進化論によると、生命も変異を繰り返し、自然選択を通して姿を変え続ける。変化しない生命は進化から取り残され、変化するからこそ生命は繁栄してきた。現代科学は、ブッダの無常観と深いところで響き合っている。
しかし、意識を持った人間は無常を知りながら、それを受け入れようとはしない。世界が変わることは認めても、自分だけは変わらない存在でありたいと願う。若い頃には自分や未来が永遠に続くように感じるが、老いを迎えると、人は神や魂、絶対的な真理のような「変わらないもの」を求め始める。それは無常を否定したいからではない。自らの死という有限性を直視することが恐ろしいからである。
しかし、ここでブッダはさらに一歩踏み込む。世界が無常であるならば、その世界を見ている「私」もまた無常ではないのか、と問いかけるのである。私たちは、自分という存在は変わらない主体であり、世界だけが変化すると考えがちである。しかし、現象学が示すように、意識は常に「何かについての意識」であり、固定した実体ではない。また仏教が説く六根・六識の考えでは、眼・耳・鼻・舌・身・意という認識器官と対象との関係によって、その瞬間ごとの意識が生起する。つまり「私」は独立して存在するのではなく、感覚、記憶、思考、身体との関係の中で、その都度立ち現れている現象にすぎないのである。無我とは、「私が存在しない」という虚無主義ではなく、「変わらない私という実体は存在しない」という洞察なのである。
さらに、この無我の理解は「縁起」へとつながる。縁起とは、あらゆる存在が原因だけでなく、多様な条件によって生じるという考え方である。例えば、花瓶にある一輪の花にも、太陽の光、雨、土、栄養、種、昆虫による受粉、花を育てた人などが関係するからこそ、そこに存在しているのだ。世界は単純な原因と結果の連鎖ではなく、無数の条件が絡み合う巨大なネットワークとして成り立っている。
このように見れば、無常・無我・縁起は、それぞれ独立した思想ではない。無常は世界が変化し続けることを示し、その変化は「私」にも及ぶことから無我が導かれる。そして、変化する世界と変化する私を結びつける原理が縁起なのである。
ブッダは宇宙論を語ろうとしたのではない。人間の苦しみを取り除くために、この世界の本質を見抜こうとしたのである。しかし、その世界観は約2500年を経た今日、現代科学や認知科学、さらには複雑系科学とも深い共鳴を見せている。
私たちは、世界を「存在するもの」の集まりとして見てきた。しかし、ブッダが示した世界は違う。世界とは、固定した存在ではなく、絶え間ない変化と無数の関係が織りなす一つの大きな流れなのである。その流れを理解したとき、人は初めて「変わらない自分」に執着する苦しみから、一歩自由になることができるのである。

橋本俊明
「brIDge」主筆/公益財団法人橋本財団 理事長
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。























