本稿は読者よりご投稿をいただいたコラムであり、内容はすべてご著者の見解です。
ヨーロッパが失敗した「多文化共生」の現実1――並行社会について考えてみよう。
日本は生活上の不文律が異様に多い、ハイコンテクストな社会だ。挨拶の順番、ゴミの出し方、近所付き合いの距離感――言語化されないまま共有される暗黙の了解で社会が運営されている。これはローコンテクストな文化から来た人と必ず摩擦を生む。多言語のゴミ出しガイドを配るだけでは足りない。問題は言語ではなく、ルールそのものが言語化されていないことにある。並行社会の発生を防ぐには、この不文律を言語化し続けるしかない。
その際の目安になるのがASDフレンドリー2な表現だと思う。皮肉や行間を読ませず、誰が見ても同じ手順で同じ結論に辿り着けるように書く。日本では農村文化の名残か、高い能力を持っていても、ASDの特性は揶揄されやすい。しかし暗黙の了解を前提にしたハイコンテクストな共同体運営は、言葉どおりに受け取る人を必ず排除してしまう。このままではスウェーデンやドイツと同じ轍を踏むだろう。多文化共生に失敗した国の多くは、住民への説明を「察してもらう」前提のまま放置していた。
なぜ日本語はそもそもハイコンテクストなのか。セム一神教の「言(ロゴス)」は理性=言葉=記号として創造神とともにあった。多民族が入り乱れる中で文化的同一性を保つには、抽象的な記号で同一性を作るしかなかった。対して紀貫之の仮名序は「やまとうたは、人の心を種として」と書く。心が先にあり、言葉はそこから生まれる。日本列島にも複数の遺伝グループが共存するが、どこでも日本語が通じる程度の均質さがあったため、記号的な言葉を発達させる必要がなかったのだ。
この質的・実存的な言語観こそ、ジブリやアニメ・漫画が忖度なしに世界化した理由でもある。具象を鮮明に描く力は、文化輸出においては強みになる。しかし同じ高コンテクスト性は、現実の生活ルールにおいては排他性に転化する。
つまり物語の高コンテクスト性は残してよいが、生活運営の不文律だけは低コンテクストに翻訳すべきだ。多文化共生とは、暗黙の了解を捨てることではなく、それをASDフレンドリーな言葉に置き換える作業なのだと思う。
自治体の現場でできることは、翻訳の前に「言語化」を挟むことではないか。回覧板の慣習、自治会費の意味、ゴミ出し以前の「曜日感覚」そのものを、まず日本語のまま明文化する。暗黙知を住民全員にとって説明可能な規則に変換できれば、多言語化はその後で十分機能する。順序を間違えると、いくら言語を増やしても並行社会は止まらない。
- brIDge「ヨーロッパが失敗した「多文化共生」の現実」https://bridgejapan.net/854/ ↩︎
- よこはま発達グループ「ASDフレンドリーな支援のために必要な視点ーどうチームを活性化させるのか」(2023年9月17日)https://note.com/ydcr/n/n57fdd8bd5a56 ↩︎
東沖 和季 さん(ペンネーム)

















