ジョン・メイナード・ケインズは1930年、『我々の孫たちの経済的可能性』で、100年後には人類は週15時間程度働けば十分になるだろうと予測した。その理由は単純だった。生産性が飛躍的に向上するからである。そして実際それから100年後、彼の予測の半分は正しかった。生産性は驚異的に伸びた。工場は自動化され、コンピュータが導入され、AIまで登場した。一人の労働者が生み出す価値は、ケインズの時代の数倍(4〜8倍)になった1。
にもかかわらず、現代人は相変わらず目一杯働いている。しかも、多くの人は以前より疲れている。これは単なる政策の失敗ではない。人間文明そのものの構造を示している。ケインズが見落としていたのは、「人間の欲望は有限ではない」ということだった。もし人間の欲望が、「食べる」「寝る」「雨風をしのぐ」で終わるなら、確かに労働時間は激減していた。しかし実際には、生産性が上がっても、人間は休まなかった。代わりに、「新しい不足=欲望」を作り始めたのである。冷蔵庫が普及すると、次は大型冷蔵庫が必要になった。スマホを持つと、次は高速回線が必要になった。家を持つと、次は「立地」が競争になった。SNSが登場すると、今度は「承認」が不足し始めた。つまり「資本主義」とは、本質的に「不足を作り続けるシステム」なのである。ケインズが見抜けなかったのは、「資本主義」の本質である。
もし全員が「これで十分」と満足してしまえば、経済は止まる。だから現代社会は、絶えず新しい不安を生産する。美容業界は、「まだ若くなれる」と言う。教育産業は、「今のままでは子どもが負ける」と言う。投資業界は、「老後資金が危険だ」と言う。SNSは、「もっと輝け」と言う。つまり、生産性向上によって生まれた余裕は、「自由時間」には変換されなかった。「新しい欲望」に変換されたのである。ここにケインズの誤算がある。
彼は、「経済問題が解決すれば、人類は幸福の問題へ移行する」と考えた。だが現実には、人類は「経済問題そのものを無限化」した。さらに重要なのは、現代人が、もはや「生きるため」にだけ働いているわけではないことだ。働くこと自体が、存在証明になってしまった。「忙しい人」は重要人物に見える。「稼ぐ人」は価値が高いとされる。逆に、何もしていない人は、不安になる。ここで奇妙な逆転が起きる。
本来、技術とは、人間を労働から解放するためのものだった。しかし現代では、技術が人間を「さらに働かせる」ために使われている。メールのおかげで、24時間仕事が来る。スマホのおかげで、休日も連絡が来る。AIのおかげで、「もっと高速で成果を出せ」と要求される。文明は進歩した。だが、人間の焦燥感も同時に進歩したのである。
ここで、ブッダ2とスピノザ3の哲学を見てみよう。ブッダは、「苦しみの原因は渇望である」と言った。スピノザは、「人は、自分の欲望を自由意思だと思い込んでいる」と言った。つまり現代人は、「自分が欲しいと思っているもの」が、本当に自分の欲望なのか、ほとんど分からなくなっている。社会が作り出した欲望を、自分の欲望だと誤認している。だから、どれだけ生産性が上がっても休めない。本当は、すでに十分豊かなのに、「まだ足りない」「もっと必要だ」という感情だけが増殖していく。
これは、ある意味で、経済問題ではない。文明が作り出した宗教の問題である。現代社会の宗教は、「成長」である。GDPが増え続けなければ不安になり、企業が拡大しなければ失敗とされ、個人もまた「成長し続けなければ価値がない」と感じる。だが、生物学的に見れば、永遠に成長し続ける細胞にはある名前がある。癌である。だから本当に必要なのは、「もっと成長するか」ではない。「どこで十分だと思えるか」なのである。ケインズの予測が外れた理由は、技術やシステムが不十分だったからではない。人間が、「足る」を学ばなかったからである。
- ニッセイ基礎研究所・基礎研REPORT(冊子版) 2015年10月号「所得8倍でも無くならない経済問題-ケインズの誤算」 櫨 浩一(2015年10月07日)https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=42801?site=nli ↩︎
- ブッダ――人間の苦しみは、執着(しゅうちゃく)、渇愛(かつあい:強い欲望)、そして無明(むみょう:真理に対する無知)である。これらは仏教で「煩悩(ぼんのう)」と呼ばれる。苦を逃れるには、苦しみに原因があることを知ること。執着や欲望を手放すこと、正しい行いや考え方を実践することであると説く。 ↩︎
- スピノザ――デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。人間は自分が何を欲しているか(欲望)は分かるが、なぜそれを欲するようになったのかという背後の原因は見えないため、欲望を自ら進んで選んだ(自由意志だ)と錯覚する。 ↩︎

橋本俊明
「brIDge」主筆/公益財団法人橋本財団 理事長
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。






















