「疑う」という態度は、一般にはあまり好意的に受け取られない。一度決まったことに対して疑問を差し挟めば、議論に時間がかかり、組織の意思決定も遅くなる。また、自分自身の考えを疑うことも、精神的に面倒でストレスも多くなる。そのため私たちは、できるだけ単純で分かりやすい説明を好みがちである。
しかし、物事を正確に理解しようとするならば、懐疑の姿勢は欠かせない。むしろ「疑う」ことこそが、誤った判断や思い込みから自由になるための第一歩である。
近年、インターネット上の情報やSNSによる誤情報の拡散が問題視されている。しかし、その原因をネットメディアそのものに求めるだけでは十分ではない。ネット上で流通する情報の多くは、昔から存在した噂話や風聞が新しい媒体を得ただけとも言えるので、間違った情報が溢れていることは当然のこととも言える。
問題の本質は、むしろ既存メディアの変質にあるのではないだろうか。本来、新聞やテレビなどの既存メディアには、情報を検証し、権力や社会通念を批判的に吟味する役割が期待されていた。しかし近年は、視聴率や購読数を重視するあまり、複雑な問題を単純な善悪の構図に落とし込み、分かりやすさを優先する傾向が強まっている。さらに、巨大資本によるメディア所有が進めば、特定の立場に有利な情報が流される危険性も高まる。間違いのリスクを恐れ、無難な、新鮮味のない記事に頼りがちとなるのだ。
こうした状況の下では、既存メディアが懐疑精神を失うだけでなく、受け手である私たち自身もまた、「疑う」習慣を失ってしまう。世界を単純な物語として理解しようとする誘惑は強い。しかし現実の社会は、本来それほど単純ではないのだ。
疑い続けることは行動停止を意味しない。十分な確信が得られないままでも、人は日常生活を送り、判断しなければならない。重要なのは、「暫定的に判断するが、いつでも修正する用意を持つ」という姿勢である。これが「進化論的」な考えや行動となる。
この点について、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは重要な示唆を与えている。ヒュームは、人間が確実な知識だと思っているものの多くは、実際には個人の習慣や経験の積み重ねに支えられているに過ぎないと考えた。真実を引き出すために考える因果関係も、自我の存在も、私たちが当然視しているほど確実なものではない。人間は世界をそのまま見ているのではなく、自らの経験や思い込みを通して解釈しているのである。
だからこそ、他人の意見であれ、自分の信念であれ、「本当にそうなのだろうか」と問い続ける姿勢が必要になる。情報があふれる現代社会において、懐疑主義は悲観主義ではない。それはむしろ、思い込みから自由になり、より正確に世界を理解するための知的な習慣なのである。
私たちはもう少し「疑う」ことを学んでもよいのではないだろうか。そして、疑いを持ったまま行動するという、いささかストレスのかかるやり方も習得する必要がある。例えば、新しい人と出会ったとき、その人を完全に理解してから付き合い始めるわけではない。「たぶん信頼できる人だろう」と考えて関係を築き、もし違えば考えを修正する。確実な知識が得られるまで待っていては、人は誰とも関わることができない。人生そのものが、実は「疑いを持ったまま行動する」ことの連続なのである。それゆえ、たとえ間違っていても即座に修正し、正しい道に戻ることができる「進化論的」な考えや行動を取ることができるのだ。私たちは、確実性を求めて立ち止まるのではなく、不確実性を受け入れながら行動し、誤りに気づけば修正するという知的な勇気を身につける必要がある。

橋本俊明
「brIDge」主筆/公益財団法人橋本財団 理事長
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。






















