外国人への不安は、なぜ政治の中心に出てきたのか
2025年7月15日、石破政権のもとで「外国人との秩序ある共生社会推進室」が発足して以来、移民増加の可能性という脅威、そしてそれにどう対処すべきかという問題は、現代日本政治において最も重要な争点の一つとなっている。日本が外国からのよそ者によって圧倒され、あるいは少なくとも挑戦されるのではないかという不安は、従来の政策の見直しを促しただけでなく、一般市民の間にも不安と懸念を広げている。
総裁選を通じて、高市首相はこの不安を上手く活かした。この一年で、外国人は日本社会全体に広がる不安や不満の主なはけ口となった。警察庁は外国人による犯罪の増加を懸念にもって報告し、外国人住民が国民健康保険や年金保険料を支払っていないという声が高まり、さらに奈良の神聖な鹿に危害を加える者さえいると、高市首相自身が主張した。
とはいえ、それほど煽情的なものではない。確かに過去10年で外国人による犯罪は増えているが、それは全体の犯罪件数も同様である。割合で見れば、外国人住民が日本人より多くの違法行為を犯しているわけでもなく、その内容が特別に重大であるわけでもない。健康保険料を支払っていない外国人や、医療費を払わずに帰国する観光客が存在するのは事実だが、それらは全体の未納額のごく一部に過ぎず、大半は日本人によるものである。また、高市氏の主張を裏付ける信頼できる証拠も確認されていない。もっとも、悪意ではなく自己防衛として鹿を蹴るようなケースは想像できなくもないが。
外国人は「原因」なのか、それとも不安の受け皿なのか
外国人は、多数派の罪を背負わされている。彼らは穢れを引き受けて川に流される人形のような存在となる。それは社会に広がる不満を鎮め、この国に迫るより大きな問題から目を逸らすためであろう。
外国人による犯罪への恐怖を煽るのではなく、本来問うべきは、なぜ安全で犯罪率の低いことで有名なこの国で、犯罪全体が増加しているのかという点である。日本は1990年代初頭のバブル崩壊以降、長期的な経済停滞に陥っており、現在の国内外の情勢はその問題をさらに深刻化させている。例えば米の価格高騰は、単なる不作といった短期的要因によるものではなく、高度に規制され、高齢化し、保護主義的な農業制度が供給を制約し、価格を押し上げている結果でもある。それにもかかわらず、その原因は観光客の増加に求められてきた。また、2020年の「海外の病」とされる以降、生活必需品の価格は上昇を続けており、イランをめぐる現在の紛争は、エネルギー価格のさらなる高騰を招く可能性が高い。
30年以上にわたる停滞は若者にも影響を及ぼし、多くが主流社会から離れ、東京・歌舞伎町の路上を彷徨うようになった。薬物乱用、裏路地での買春、いわゆる闇バイトの増加は、全体的な衰退の症状に過ぎない。厳しい経済状況と機会や指針の欠如は、犯罪のような反社会的行動の温床となる。
日本の生産年齢人口も年々減少している。生活費が上昇し、健康保険や年金に拠出する人が減る中で、とりわけ現役世代は次のように考え始めるかもしれない。「自分は保険料を払っていけるのか」「将来受け取れる見込みの薄い年金に、なぜ支払い続けなければならないのか」「老後は誰が自分を支えてくれるのか」
筆者自身、制度の理念には理解と支持を示しつつも、こうした問いに悩まされている。同世代の多くが同じ思いを抱いているのではないだろうか。外国人住民の未払い医療費や年金保険料を回収したところで、将来の制度崩壊を防ぐには到底足りない。それでもなお、それは解決の難しい問題に取り組むよりもはるかに魅力的な政治的道具となる。
拒まれている人たちに支えられている現実
人口減少を通じて、日本は自らの死すべき運命を意識するようになった。それは国家としてではなくとも、少なくとも文化としての終焉である。奈良の鹿は神の使いとされ、日本文化の象徴的存在である。それに危害を加えることは単なる動物虐待ではなく、日本そのものへの攻撃である。こうした物語は演説の中で巧みに利用され、普段は政治に無関心な有権者を動員する。しかし、その鹿を肥えさせてきたのもまた、忌み嫌われる観光客である。
日本は清潔さ、利便性、そして行き届いたおもてなしを誇りとしてきた。しかし、在留資格の費用が大幅に引き上げられ、申請要件が厳格化されつつあるなかで、一体誰がそれを支えるのか。低技能労働の多くは、留学生や外国人労働者に依存している。彼らこそが社会を円滑に機能させているにもかかわらず、現在の政治的言説は、まるで彼らがその崩壊の原因であるかのように描く。依存と拒絶という矛盾。
移民に賛成であれ反対であれ、日本がそれなしでは持続できないという事実は変わらない。いずれ日本は移民問題に対して現実的な解決策を見出さなければならない。しかし、現行の外国人労働制度は、その答えにはならないだろう。まず何よりも、日本はグレンダ・ロバーツの言う「iワード」と向き合う必要がある。
必要とされながら、居場所を与えられない
日本は移民を認めていない。出入国管理及び難民認定法には「移民」という言葉は存在せず、代わりに「外国人」というカテゴリーが「日本人」と対置される。国連やEUであれば、一定期間滞在し働き納税する人々を移民と呼ぶところ、日本ではせいぜい「外国人材」や「外国人労働者」として扱われるに過ぎない。外国人はあくまで外国のモノである。
外国生まれの居住者と観光客との間に本質的な違いはない。いずれも大きなカテゴリーの中の異なる区分に過ぎない。もし観光客が鹿に危害を加えれば、その責任は「日本人ではない者」全体に帰せられる。幸いなことに観光客は長くは滞在しない。経済に十分貢献したら、やがて帰るべき場所へと戻っていく。
折れた大腿骨を固定するネジは、決して身体の一部にはならない。あくまで異物であり、役目を終えた途端、あるいは炎症を引き起こしたときには取り除かれるべき存在である。しかし問題は、依存しているものを恒常的に拒絶する身体は安定し得ないという点にある。一時的に受け入れ、反応を抑え込み、周囲に適応を施すことはできるかもしれない。それでもなお、その異物性と根本的な不適合を前提とする限り、いわゆる「秩序ある共生」は実際的な統制の言い換えに過ぎない。やがて痛みは慢性化していく。
日本はまさにその状態にある。介護からサービス業に至るまで、経済の重要な部分を外国人の働きに依存しながら、その担い手を概念的には受け入れていない。彼らは取り込まれ、管理され、分類され、そして必要であれば排除される。その結果生まれるのが、不可欠でありながら居場所を持たない「永続する一時性」である。
これは単なる移民政策の問題ではない。人口基盤が揺らぐ中で、社会が自らをどのように理解するかという問題である。縮小する共同体において、誰がその一員と見なされるのか。もし停滞と消滅が代替案であるのなら、新しいものを取り入れることは、失うことではなく、むしろ生き残るための手段ではないのか。
「日本」を維持できるのか
人口減少の痛みに対して一時的な移民で対処しようとする試みは、必然的に不安定であり続ける。社会は、自らが受け入れを拒むモノに永続的に依存することはできない。外国人に投影されてきた不安は、その原因ではなく、むしろその表れである。
得体の知れないモノに立ち向かうことは、最終的には自己との対峙に他ならない。問われているのは、よそ者を適合させられるかではなく、保とうとしている境界そのものを再定義できるかどうかなのである。それができない限り、守るべきものはやがて静かに失われていくだろう。
Aichholzer Stefan(アイヒホルツァー シュテファン)
橋本財団 ソシエタス総合研究所 研究員
オーストリア出身。ウィーン大学を卒業後、大阪大学大学院で博士(人間科学)を取得。専門は日本社会のエスニック多様性で、移民の社会統合や国際結婚を研究する。2026年4月より橋本財団ソシエタス総合研究所の研究員として勤務。













